2010年1月13日(水)久能山の東照宮を後にして一路三保の松原へ
三保の松原に近づくにつれ、だんだん富士山の色が濃くなり、なんとか写真に映るようになった。
伝説の羽衣の松を祀っている神社は、もっと町内にあったと思ったが、海岸の松林の中にあって驚いた。人間の記憶、いや私の記憶が、いかにいい加減かがよくわかる。
三保の松原から見た富士山↓ 三保の松原の松↓
(写真をクリックすると拡大できます)
羽衣の松神社↓ 羽衣の松↓
三保園ホテルの敷地内にある清水灯台↓ 三保園ホテル↓
2010年4月より、旅日記を元気ナースの旅日記」に分離しました。↓こちらもどうぞよろしく。
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2010年3月12日金曜日
2010年3月11日木曜日
日本平・久能山 静岡の旅(1)
2010年1月13日(水)
日本平より富士山をのぞむ。海抜308mの日本平山頂からの富士山は薄くて写真に写らないほどだ。
毎年のように来ていても、はっきり見えたのは5本の指に入らないくらいだ。
日本平はアンテナだらけ。地デジに向けてアンテナが一気に増えたように思う。
空気が澄んでいれば、富士山を正面に、遠く伊豆半島の山並みや南アルプスを見渡すことができるというのに残念。
日本平↓(写真をクリックすると拡大できます) 看板↓
海抜308mの日本平から日本平ロープウェイで、海抜270mの久能山東照宮(重要文化財)へ。
徳川家康公が1616年4月17日駿府城で75歳の生涯を閉じたときの遺言「遺体は久能山、位牌は三河の大樹寺へ、一年後日光に祀って欲しい」に従って、久能山東照宮は建立されたとのこと。
50年毎の漆の塗り替えがすんだときなので、とてもきれいだった。
楼門↓ 神廟(家康公の墓所)↓
久能山東照宮で、再び家康の遺訓を読んで、まさに今の時代に適合するなあと感じて東照宮を後にした。
東照公遺訓
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思へば不足なし。
心にのぞみ起こらば、困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る。
己を責めて、人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
慶長八年正月十五日 家康(花押)
人はただ身の程を知れ草の葉の露も重きは落つるものかな
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日本平より富士山をのぞむ。海抜308mの日本平山頂からの富士山は薄くて写真に写らないほどだ。
毎年のように来ていても、はっきり見えたのは5本の指に入らないくらいだ。
日本平はアンテナだらけ。地デジに向けてアンテナが一気に増えたように思う。
空気が澄んでいれば、富士山を正面に、遠く伊豆半島の山並みや南アルプスを見渡すことができるというのに残念。
日本平↓(写真をクリックすると拡大できます) 看板↓
海抜308mの日本平から日本平ロープウェイで、海抜270mの久能山東照宮(重要文化財)へ。
徳川家康公が1616年4月17日駿府城で75歳の生涯を閉じたときの遺言「遺体は久能山、位牌は三河の大樹寺へ、一年後日光に祀って欲しい」に従って、久能山東照宮は建立されたとのこと。
50年毎の漆の塗り替えがすんだときなので、とてもきれいだった。
楼門↓ 神廟(家康公の墓所)↓
久能山東照宮で、再び家康の遺訓を読んで、まさに今の時代に適合するなあと感じて東照宮を後にした。
東照公遺訓
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思へば不足なし。
心にのぞみ起こらば、困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る。
己を責めて、人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
慶長八年正月十五日 家康(花押)
人はただ身の程を知れ草の葉の露も重きは落つるものかな
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